昭和42年9月5日   朝の御理解

 昨日、朝から久留米の櫛原の教会で、布教所、それから、もう何十年になるけれども、あんまり御ひれいがたたないと言った様なまあ、言うなら小さい教会の方達がほとんどであったと言うことでございますが、二十、二十七名ね。それを何回にも分けて丁度昨日ここが、その、それに、行かなならん日になっておりましたから、若先生が参りました。一晩泊まりで昨日と今日とでがざいました。近くの者は、帰る。まあ、近くの人達は、ございませんでしたそうですから、まあ、ここに、若先生達が夕べ遅くに帰って参りました。また、今朝8時からですか、懇談会又は、信心の進め方。どうすれば人が助かるかと言った様なことをまあ、いろいろ話合いがあるそうでございます。帰りましてから、私、その模様を、昨日聞かして頂いたんですけれども、本当に人が助かるということは、とても大変なことだなーとこう思います。本当にあの、二〇年にも、三〇年にもなった教会で教会の維持が出来ないと言った様なところもございます。布教に出られたばかりの先生方の集まりでございますから、それこそ生き生きとしてもう、本当に生き生きとして人が助かることのための信心に打ち込んでどうすれば人が助かるかという様なことにそれこそ燃えておられる様な先生方もある中に、布教に出たけれどもとても、私達じゃ難しい。と言って精も根も尽き果てたと言った様な先生方もずい分見受けられたようですね。まあ、そういう中にあってから、本当にもう本当に合楽といゃ。若先生の言葉を借りるとですね。とても私どもが合楽がこういうふうに人が助かってこういう様なご造営なんかもおかげ頂いてこういう様なそんなことなんかはですね。とてもあまりにも酷な感じがする。あまりにもですね。これだけ自分達は、頑張っているのに自分達は、これだけ一生懸命修業しよるのに助からんのか。合楽だけがそんなに助かるはずがないじゃないか。ね。何かむしろ、かえって迫害視される様な雰囲気があったから、もう謹んで謹んで皆さんの話を聞かせて頂いて、ある意味では、本当に信心とは、尊いものだなーということも感じると同時に本当に焦点を間違えたらおかげは受けられないということを痛いほど痛感してきたと言うことを申しております。ね。今日、又、お話しがあるそうでございますが、本当に思わせて頂いてですね。本当にこれは、いよいよ合楽が本当に皆に認められる信心を頂いてそして合楽がどういう様なところからどういう風な信心からどういう様な生き方で、なら、現在の様なおかげを受けておるかと言うことを聞いてもらわなければならないなあと、それが教団の発展にもなりゃ、人の助かることの元にもなると私は、思ってそのことを話したことでしたが、いよいよ合楽がおかげ頂かにゃいけんなーということを申しました。ただ、「ローマは、一日にしてならず」ですね。いかにも、なるほど私が椛目に帰って参りました頃から本当にそういう意味では、全々苦労しておりませんですね。もう、私が椛目に帰った頃には、もう押すな押すなという様に人が集まって来ましたから。けれども、そこまでになるまでの過程と言うものが確かにあったはずなんです。ね。別に宣伝した訳でなからなければその広告、そのちらしをまいたわけでもないのにもかかわらず皆がああして集まってきた。しかもそれが助かって行ったということです。ね、ですから、本当にそういう様なところを本気で皆さんがはあ、そういう在り方になれば助かるんだなあーと言う様なそれこそおかげを頂いてもらえる様に私共がもっともっと前進をさせてもらわねばならんなという様なことを感じるですね。それで私最後に、実際にいろいろ話を聞かせて頂いてからも、聞いたことですけれども、どんなふうだろうか。みなさんは、ああ、そうしてもう、本当に例えば食べるものがない。百円の御初穂があったらその百円の金を親子兄弟、この盆に醤油を何十円がつと買って分けた。と、笑い話の様な深刻な話でございますね。本当にそうなって参りますと、百円のお金の尊いことを感じますけれど、そういう様なしら真剣な修業をしておられるのに、どこんところが違うたら人が助からんのだろうか。人が助かること。私は、まず、人が助かると言うことの前に布教師、先生、家族そのものが助からなければだめだと言う。いうなら、ここでなら、私なら、私自信が、本当に助からなければ人が助かるはずがない。金光大神のお徳で、金光大神のお徳でと、こう言うけれども、金光大神のお徳を現すのも、私自信が金光大神の御教えを頂いて私自信が助からなければ。それは、受け売り的なものになって本当のおかげになって来ない。私が助からなければ。それで、どんなふですか。みなさん。たばこは、皆さん先生方あがられるでしょう。20何人が来ている先生が皆タバコをのまん先生はおらん。と、それならまだ余裕がある。と。私申しました。ね、えー、大教会でございますすから、非常にサービスが良かったそうですから。1日の賄いが15円。ああ、それでもう、何百円と出さなきゃと言った様に教会から賄いを受けて来たらしいんですけれども、やはり、みなさん、お酒も随分召し上がるし、タバコもやっぱり一人、皆。そういうて食べる。本当に如何にして食べて行くか。如何にして食べるか、生活していくか、ということにもう、一生懸命だと言う。しら真剣な布教の模様を聞かせて頂いておるのに、やっぱり、その、より高いタバコをスパスパ飲みながらやっている、そこで、何かこう私、タバコを飲んじゃいけんというのじゃございませんけれどもです。まだまだそこに、言うなら身を粉にして、けれども今のその先生方が本当にそういう尊い所を通っておられるんだから、その尊い所を通っておられる方というものが、私は少し考えなければならない。向きを変えなければならないのじゃなかろうかというふうに感じたですね。私共でも、始めの間は、もう、月次祭と言うても、家内と二人でお祭りを仕えさせてもろうて本当に水玉勿論、水玉は、水ですけれども、お神酒すずも水。もう、お野菜というても、買うお野菜は、ございませんから、庭に生えておる、庭に作っております少しばかりのにらがございましたから、いつも、にらがお三宝1台。それに食料品屋さんから、もう食べられないと言って捨てておられるたくわん漬けの様なもう、半分腐った様なのを、頂いてきて、良い所だけをお三宝1台と言った様な時代がございました。ね、その当時に神様は、言うて下さりよった。「水ずくし、魚ずくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ」と言った様なご理解を頂いておりました。もう、水ずくしでした。ところが、私共は、その時も一つも難儀と感じていなかったことでがざいます。もう、それがありがとうして、ありがとうしてたまらんじゃったです。ね、ですから、今そういうしら真剣な布教に出て、しら真剣な例えば修行なさって、ね。大半は、その生き生きとしたまだ、1年か2年かのところでしか、もう、生き生きとした、もう、前進する以外にないという様にしてなさっておられるのだろうけれども、3年、4年目になってくるともう、疲れが出てくる。人間ですから、そして、とても、私共が布教に出て人が助かるという様なことは、もうとても、とても、出来るこっちゃない、と言って、精も根も尽き果てたと言った様な先生方もある。その証拠にゃ食事なんかでも1食15円。もう旅費なんかでも全部出るんですよ。もう、北九州管内ですから、佐賀あたりからまで皆見えておられる。ね、そうしてでも、例えば教務所、又、本部としては、どうでも、人が助かるお広前として折角そういうおかげを頂いておられるのであるから、なんとかして引き立てよう。なんとかして分からせてお互い分かり合っていこうというのが、その集いの焦点なんです。ね、私また、申しました。それでもね、布教所にでられたということとだけでも本当いうたら先生方、もう少しありがたいと思わなければいけんなー。布教所という看板をあげられたというだけでも。そこに、例えば熱心な信者を5人なら5人できりゃあ。もう、5人の総代が出来りゃあ、言わば教会になれるんだからね。布教所の布教所が出来たというその運びになったというこが私は、有り難い。考えて見たら桜井先生なんかは、ですね。あれだけの修行が出来ておられるのに、その布教所すら出せない。で、まだ、信心しておられる。難儀しておられる方達がまだ、沢山あることを知って布教所にでも、出して頂いた。布教所だけでも、持つことが出来たというだけでも、まあ、ちょっと本気で喜ばせて頂いてですね。そして現在のその難儀の中に本当に喜び一杯で親先生、若先生が申しておりました。とにかく信心ちゃですね、もう、やっぱり好きにならなければ出来ることじゃありません。今の先生方が今から、今、こう難儀になったらどうじゃろうか。出て行くことが出来るか。人がどうしたなら、助かるだろうか、ということは、どうすれば自分達が助かっていくだろう。生活できるだろうかといった様なことではなくてです。本当言うなら、そういう難儀の中にもうちっと修行がしてみたい。もちっと苦労がしてみたい。と言った様な、私はあの、聞かせて頂きながらそういう様なことになってこなければいけないね、と言う様なことを思うた。ね。そこで、皆さんの場合でもです。ね、信心に向こうてお参りなさっておられますけれども、その焦点が間違うと、それがもう、いわゆるポイントが違っておるとですね、ここで、同じであってもね、こちらの車は、こちらへ行き、こちらの車は、こちらへ行ってしまうのですよ。ポイントの切り方一つなんです。焦点の置き所というものが違うとです。金光様の信心は、何十年しておるけれども、まあだ、こんな状態だ。と、いわば、今の布教所の話で言うならば、もう、二五年にも、三〇年にもなるけれども、教会にはなったけれども、まあ、本部の補助を受けなければ教会が立って行かんと言ったような状態。私はここが間違っていると思うんですよね。信心と言うのは、どういう難儀の中、どういう厳しい中、どういう修行の真っ最中という中にでもです。信心の生き生きとしたというものの中には、必ず喜びが伴わなければならないはずなんです。その喜びが伴わないとするなら、おかしいのですよね。めぐりが大きければ大きい程、おかげが大きいとおっしゃる。難儀が大きければ大きい程、おかげも受けられると言うことです。いわゆる力を頂けると言うことです。とんとん拍子におかげを受ける。とね、それでは、やはり、力は受けられません。やはりああでもなかろうか、こうでもなかろうか。ね、どうしておかげが受けられんのであろうかと、そのどうしておかげを受けられんのだろうかということをいわゆる昨日の先生方は、皆感じておられるわけです。又、それを指導される布教所の方でもどうしてあそこの教会は、御ひれいがたたんであろうかと言うところに話合いがあったわけなんです。ところが、そんなら肝心要の話の焦点という所がどうも、今日は尊い大変良い話を頂いてきたと言いましたけれども、本当に自分がいよいよ助かっていくことのためには、まだ、ほど遠い。と言はないか、った様な私は感じが致しました。ね、ですから、皆さんが日頃こうやってお参りをされて御理解を頂かれて自分たちの信心の焦点というものがです。ね、間違っておるようなことはなか、それは、信心の程度に応じてやはり、この、でがざいますけれども、やはり、それでも、焦点がなからにゃいかんのですよ。ね。例えば今、沢水さんがもう随分前から、信心はしておられますけど、もう、信心でも本気でなさろうと言ったのは、今度の息子さんのああいう災難に会われてからであると思うのですよ。ね、毎日日参でもなさってから、一生懸命神様にお縋りされ出したのは、そんなら、言うならばここに、信心がようやくまあ、一月から一月位本当の信心あって来られた。どうでも、神様にお縋りしなければ人間の知恵、力で出来ることじゃないことを分かられてお縋りされる様になった。だから、ならどうぞ息子が、息子がと言ってお願いなさると言うだけではいけない。ね、そのためには、それこそ、自分の生命は、縮めてからでもと言う様な切実な一心を立てておられる。ね。一心を立てておられてもです。焦点が間違うてはいけぬです。沢水さんのことについては、総代さんの堤さんも、毎日お届けがございます。切実のことのお願いがなされます。もう、1ぺんこの世に生を得たい。そしてこのありがたい信心を本当に分かってもらいたい。私は、ここに焦点の間違いないということを感じます。
どうぞ、助けて下さい。助けて下さいだけではいかん。今度、助からせて頂きましたら、私もこのことによって信心を本当に分からせて頂きましてまた、これからも、いよいよ頂かしてもらいますが、助けて頂いた息子も、どうぞこの尊いお道に助けて頂いてから、このありがたいお道に入らしてもろうて有りがたい信心生活が出来ます様に助けて下さい。と言うことになってくると、もう、心の中に、大変な違いが出来てくるわけです。ただ、助けて下さい。助けて下さい。だけでは、いけない。ということが分かりますですね。ね、助けたばっかりにまた、そのもうこんな例があるのですよ。息子さんが栗粒結核
で、もう医者の見放した。そこで上滝さん達がああして助かられたもんですから、それを聞いてからお参りをしてきた方があった。ね、お母さんが一生懸命お参りをした。1カ月位には、その本人の息子さんがお参りをして来るようになった。ね。お医者さんにも、もう、その止めて一生懸命椛目にお参りをする様になった。本人が毎日毎日歩いて参ってくる。おかげを頂いて助かりました。ところがです。それから、信心がちょっとこう、中断致しました。ところが、その息子さんがですね。その村のまあ、不良かも知れんけど、まあ、その、良くないことばっかりをして遊んで回っておる悪い友達が出来た。4、5人でそしてその村でですね。ある所へ、泥棒に入ってですね。お米を取ったり牛を盗み出したりする様なことが起こったんです。とうとうただでは置かれんもんですから、警察問題になったんです。ね、その時に初めて目が覚めたようにその、お母さんが出て参りましてからですね。もう、先生、本当にあの時助けて下さいと言うてお願いしなければ良かったと言われました。もう、これは、極端な例ですよ。どうぞ助けて下さい。助けて下さい、と言うてお願いをした。そして信心が薄らいだ。そしたら息子さんがそういうことになった。そしたらあん時助けてもらわん方が良かったと言うて親が嘆いておりました。その当時、それで助けなさった神様は、もう、本当に何の為に助けたかわからないと言うことになるのです。まあ、その後においておかげを受けております。また、それでも。また、今も、また、信心が復帰してここにお参りして見えとられます。お母さん。ね。それがですね、そういう様なことになったんでは、ですね。いけないですから、やはり、焦点を間違えたらいけないと言うことが分かるでしょうが。助けて下さい。そして、今度、助けて頂いたならば神様に喜んで頂く様な氏子にお引き立て下さい。信心もさせて下さい。私もこれを境に本当の信心にならせて下さい、と言った様な私は願いが、助けて下さい、と言うことに、つながって初めて私は焦点の間違ってないことになってくるのじゃないでしょうか。ね。ようやく人が助かり出した。おかげで教会にもなった。ところが、二〇年三〇年たってもその当時と一つも変わらんで教会には、なったけれども人が現在助かっていないと言うはずですね、もう教会になったばっかりにその信者に腰掛けてしもうておる。先生が。まるっきりその教会が生活維持のために何人かの信者が居るといった様な感じの教会がいくらでもあると言うこと。むしろ、教会にならなかった方が良かった。ね。
私昨日そうして若先生からお話しを聞かして頂いてから、その本当に焦点を間違えてはならないなーということをですね、思いました。それは、それぞれの信心ですから、私がこうでなからなければならぬと言うことは言えんのです。けれども、自分の頂いている信心が果たして、ね、金光大神も喜んで下さり、神も喜び、ね、そして、おかげを受けていく氏子をもの喜びじゃと言うような、そういう喜びの信心につながっておるかどうか。ただ、助けてもろうただけというのじゃなくてですね。神も喜び、氏子も喜び。金光大神も喜びというね。天地の親神様も喜んで下さる。取り次ぎ者も喜んで下さる。ね。そしておかげを受けた者も喜べると言うような喜びの問題につながっておらなければならないということなんです。ね、そういう信心を即、焦点はそこですけれども、まず信心に過程においてそれは、大変な色々違ってまいりましょう。ね。そこんところを一つ求め求めしていかなければなりません。そこんところをはっきり打ち出しての信心になっていかねばならないと思いますね。問題は、そしてやっぱり信心が好きにならなければだめ。一生懸命こうやって修行中に一生懸命な難儀をかかえて信心させて頂いている時にです。信心のありがたさ。信心が楽しゅう、うれしゅう出来れる様にならなければならない。同時にですね。その御結界を死守しなければならない。布教所ではですね。教会では、ご結界という所を一つ本気で守る。ご結界を開ける様なことでは、ごひれいは、立たないと言う話が出たそうです。これは、しかし、私申しました。もう私どんが、子供の時から何十年この話は、言い継がれてきたことであるけれども、やっぱり何十年前の先生方でも、それは、仰っしゃておられた。教会がごひれい立たんと言うのは、ご結界が疎かになっておるからですと言うことを。それは、何十年間言い続けられておるけれども、まあ、果たして御結界を死守しておるというか、ね。ご結界を守り抜いておるという様なことが出来ておるか。出来ていないんですね。それが。ですから、とても、ここに、座るということでも、とても、?なしには座られることじゃなかって。若先生がそれを言ってとにかくご結界に奉仕をすることでもですね。やはり好きにならなければ出来ることじゃないて。だから、まず、信心が好きになるための信心をですね。焦点をそういう所におかにゃあいかんわけですよ。そんなら、今日からご結界にいっちょどうでんこうでんと言うて1カ月位続きましてもです。若先生がある教会でのことを、もう本当にもうそこの先生がですね、例えば合楽の話を聞かれたんですよ。そしてまあ、あそこは、もう朝の5時から夜の10時までは、もう、ご結界が空くことがない。そげなことを聞いて、だから、発奮されたのでしょう。その先生が。そして、どうでも、自分もその気になられてから、とにかくこげんして一生懸命そのなられる姿が良う感じられると、もう本当にもうむぞらしかごと感じたと言うのですね。ところがですね、それがですね。やっぱり3日と続かんと。言うなら、ね。だから、いかに、むずかしいかと言うことがわかるって。ね、それは、やはり、焦点がね、自分の我でふまえて座ると言った様なことが、出来ることじゃなかって。皆さんの修行でも同じことです。まあ、それで、もう、あの、まあ、なんとかかんとか口実をつけてからか、おおいか?、ですから、そのそれでも、本当にそのむごたらしいごたる感じがすると言うことを申してましたですね。あの、ただ、一生懸命になるだけで、ご結界奉仕する様なのは、脇から見ちゃおられんと、こう言う。ね、信心でも、そうですね、皆さんの信心をはあ、本当に金光様の信心ちゃもう術なかろうち。あげん、毎日参らんならんならと、人から言われたり思われたりする様なことじゃ、本なものじゃないと言うこと。もう、何か、それこそ、好きな所にでも、行く様にしてから、お参りをしよる。出来る様な私、信心を頂かにゃいかん。だから、まず、焦点をですね、本当にうれしゅう楽しゅう堤さんのお届けじゃないけれども、うれしゅう楽しゅう安心して、このお広前で、信心のけいこが出来るようにと言われる。そういう様なですね、おかげを本当に頂かにゃいかん。んならそういううれしゅう楽しゅう信心のけいこの出来るためには、焦点がやっぱ変えなきゃいかんですよ。どういう信心したらそれが楽しゅうなってくるか、うれしゅうなってくるかと言った。ね、ですから、まず、そういうところからですね。お互いの信心を進めて行かなければいけない。もう、本当にこう、なんと言うですか。ね、人の難儀をお取り次させて頂く。もうそのことがですね。もう何が何というても1番うれしいんです。ね、世の中に難儀が沢山ある。その難儀をですね、そのままでは、おかげにならん。そこで、その難儀を問いただして頂くというとが、もう楽しゅう、もう神様は、喜んで下さる。それがもう、楽しゅうてたまらんと言ったような気持ちにならなけらばお取り次ぎは、出来ることじゃないと、思うのですけれども、なら、堤さんの  でもです。お参りさせて頂くということ。日々のことをお取り次ぎ頂いておかげ頂くということがです、楽しゅうなってくるような信心を頂くためには、ただ、漠然とお参りをしておるだけじゃ、何十年たったったちゃ、うれしい楽しいには、なってこない。だから、どういうふうに、すりゃー信心が楽しゅうなるだろうか。と、どういうふうにすりゃー信心が有り難うなるだろうかというところをです。私は、もう少し、究める。ね、だから、そこが出来てない人は、一つ皆さんの焦点をですね、変えて信心のけいこをしなけりゃいけんと思うですよ。どうぞ。